27歳最後の日
明日、28歳の誕生日を迎える。
夫との関係は相変わらず良好だし、むしろ、年々新しい優しさや愛情に触れて、幸せを感じる瞬間は増えているかもしれない。
友人関係は、一緒に過ごす時間が心地良い人たちとしか会っていないし、最近出会ったのに「友達」と呼べる人も増えた。
両親も兄も、皆健康。
夏頃に、叔母が亡くなってしまったけれど。
27歳で気付いたことは、
・友情に距離は関係ない
・私は仕事ができない人間ではない
・でも要領が悪い人に優しくすることが苦手
・お酒を飲まない朝はとても気持ち良い
・ゆっくり飲むと激しい二日酔いにはならない
・小説を読むことがやっぱり好き
・電化製品を買うとテンションが上がる
・綺麗な服を着ている時は気分が上がる
このくらいだろうか。
今の私は、とても満たされている。そして、それに慣れてしまった。
何も予定がない週末を、暇だな、と思うようになった。
予定を埋められない時、自分には何もない、と自己嫌悪になった。
少し前まで、予定がなくて家にずっと居られる週末が大好きだった。
明るいうちからお酒を飲んで、好きな映像を沢山見て、小説を読んで、好きな時に寝て、夫とお喋りして。
そんな日が大好きだったのに、いつからか、「何かしなきゃ」と思うようになった。
自分なりに理由を考えた結果、私は今とても幸せなのだと思う。
何もない週末が好きだった頃は、平日は忙殺されていた。ストレスからか、平日も沢山飲みに行っていた。フレックスだったこともあって、飲む時は二日酔いになるまで飲んでいたし、酒鬱になる時も少なくなかった。でもまた仕事のストレスを解消するために飲む、みたいな日々を過ごしていた。
だから、週末だけの、誰にも左右されない時間が愛おしかった。
でも今は、平日は定時に帰る日が多いし、出社時間が決まっているので、直帰する日がほとんどで、飲みに行くことは滅多にない。
あと、よく会っていた友人が地元に帰ってしまったから、そもそも外出の機会が減った。
だから、暇を持て余してるのだと思う。
あんなに恋しかった、誰にも左右されない時間が、今は沢山ある。使い方がわからないほどに。
我ながら贅沢な悩みだな。
28歳は、無いものじゃなくて、有るものを見ようとする人になりたいな。
イノチミジカシ
悲しんでる暇はない。
明日のことを考えて、嫌だな〜時間止まって欲しいな〜って思ったって明日は来るし。
そんなことよりも、昨日楽しかったことの余韻を感じていたいし、これまであった幸せなことを思い出してふって笑顔になっていたい。
そうじゃないと、毎日もったいない。仕事なんて、できなくたってお金は貰える。そのお金で美味しいものが食べられるし、好きな人と好きなところへ行ける。
好きとか楽しいとかを積み重ねられる人になりたい。嬉しかったことばかり思い出すような人でありたい。
人生は、短い。
10年後、私は子供を産まなかったことを後悔するだろうか
Xを見ていたら、奥さんが高齢出産をした時に、もっと早くに子供を検討するべきだった、と後悔している男性の記事があった。
彼は奥さんよりも10歳程年下で、結婚当初は、子供を産むことを真剣に考えていなかったそう。
だけど、奥さんが40近くになって第一子を授かった時、もっと早く産んでいれば、奥さんのリスクも低く、第ニ子だって考えられたかもしれない、そんな後悔がある、と書いてあった。
金銭的理由で子供を産むことを考えていない人が居るなら、ぜひ考え直してほしい、と。
私は未だに、「子供が欲しい」と強く思ったことがない。赤ちゃんは可愛いし、こんな可愛い生き物と自分の血が繋がっているのだから、そりゃ親は子供が可愛くてたまらないだろう、とは思う。
それに、自分にもし子供が居たら、きっと私はもう自分の人生を生きることは無くなるだろう。
子供の喜怒哀楽が私の喜怒哀楽になる。
でも、現実味がない。
自分が親になれる自信もない。
私は10年後、この選択を後悔するのだろうか。
欲しいと思った時には、もう、手遅れになっているだろうか。
そう考えると、とても怖い。
今の選択が間違っていたら、と考えると、どうしようもなく怖くなる。
だけど、そんな自分を守るために、予防線を張るように、子供を産むことは、したくない。
そんな理由で誰かの人生をひとつ創り出すなんて、私はそんな簡単にできない。
大人はみんな聞き上手だから、大人になってよかった
複数人の前で、長々と自分の話をするのが苦手だ。
ビジネスでも、プライベートでも。
「長々と」というのがポイントで、短めの自己紹介や、受け答えをすることは難なくこなせる。
ただ、自己紹介の中でも、より詳細を話すとなると、声が少し震えて、顔が赤くなってしまう。
この一種の「緊張」には、内容よりは、時間が関係しているように思う。
人前に立って話すとか、初対面の人と話すとか、そういう場面じゃないのに、緊張する。
朝礼とか、複数人の飲み会とか、評価に関係のない発表とか、そういう本当に小さな場面なのに。
そして、そんな自分がとても嫌だ。
大学生の頃まで、全然そんなタイプじゃなかった。人前で立って話す時ですら、多少の緊張はあっても、話し始めればその場に慣れるタイプだった。
婚活パーティーの司会のバイトをしていたくらい。
いつから、何がきっかけで、どうしてこうなったのか、思い当たる節はない。
どうして緊張するのだろう?と常々考えているのだけれど、ふと思い浮かんだ。
「人が自分の話を聞くために時間を割いている」という感覚が、どこかにずっとあるのかもしれない。
だから、自分が話す時間が延びれば延びるほど、「簡潔に話さなければ」「飽きられていないだろうか」「面白く話さないと」という不安が、自分の声を震えさせ、顔を赤くさせているように思う。
どうしてそんな風に思うんだろう。
私は人の話を聞くのが好きだし、夫や両親、兄、友人は、皆、私の話を沢山聞いてくれる。
くだらない話を長々としたって、また何回でも会いたいと言ってくれる。
まあ、でも、思い当たるとすれば、中高時代の友人関係だなあ〜。
中高6年間女子校だった私は、「女子」という生き物の特性を嫌というほど知ったし、集団の中でポジションを築くために、知るしかなかった。
そして、知りすぎて、自分の話ができない「聞き上手」というポジションを確立した。
あの頃の「女子」はとにかく聞き下手が多かった。自分が中心の世界を生きていたい彼女たちは、自分の話を沢山して満足すると、人の話はただの雑音になる。
今じゃ考えられないけれど、例えば6人で輪になって話をしていたとして、1人が話をしている時、相槌は打たないのは当たり前で、興味がある部分だけ食い気味に入り、面白くなくなったらスマホを触って離脱。おかげで、話し手はいつも私の目しか見ていなかった。
そして彼女たちは、私に、「聞き上手だね」と言うのだ。
それが、大学に入ると、びっくり。
初めて出会う友人たちは皆、私の目を見て、うんうん、ときちんと相槌をしながら話を聞いてくれる。
しかも、男の子が。
今思えば、彼らが「聞き上手」に見えたのは、後ろに「下心」が見守っていたからなのだけれど、18歳の私は無邪気に喜び、そこから性に奔放になっていた、という話は置いておいて。
少し話は逸れたけれど、もし中高時代の私が、今の私を苦しめているのだとしたら、勿体無いな。
だってもうみんな立派な大人で、あの頃の彼女たちも、今は私の話に相槌を打ちながら、楽しそうに聞いてくれる、大人の女性になっている。
私がつまらない話を長々としてしまっても、大人は、つまらなくない話をしているような相槌を打ってくれる。
だから、今日から、安心して、自分の話をしよう。
大人はみんな「聞き上手」だからね。
2026年、よろしくお願いします
気付いたら2025年が終わって、2026年が始まって、明日から仕事が始まる。やだな〜と思いながら、眉毛脱色をしている。
なんで仕事が始まるのが嫌なんだろう、って少し考えたけど、嫌なのは満員電車で、別に仕事が嫌なわけじゃないなと気付き、私はわりと幸せなのだと思う。
今年は帰省しなかったこともあってか、ぬるっとした年末年始だった。あと、夫が元旦から体調を崩してしまって、結局インフルエンザやコロナではなかったけど、高熱が出たらどうしよう、病院に行けるだろうか、など無駄に心配してしまって、ずっとほんのり心細いまま寝正月を過ごしてしまった。
誰かを想って毎日を生きられることは幸せなことだけれど、こういう時は独りだったら自分自身の心配だけでいいから、少しだけ独身時代が恋しくなった。まあ、結局ないものねだりなことももう十分知っているのだけれど。
新年だからといって何か大きな目標を立てるのは苦手。でもそれは、自分はある程度しか頑張れない人間だと、少し諦めてしまっているからなのだと気付いて、悲しくなった。
ただ、この連休を通して思ったのは、私は酒が飲めなくなったら何をするのだろうか、ということ。
私はお酒が大好きなので、休みがあれば飲みにいくか、予定がなければ家で飲んでいる。
平日は飲まないようにしているから、連日酒を飲む毎日を送る中で、私は「酒を飲む」ことが中心にあって、付属物として友人と会う時間や行く場所、観るモノがあるような気がして、怖くなった。
酒を飲みたいから会う人を求め、行きたい場所を探す。酒を飲みながら、やることがないから、鑑賞するモノを選ぶ。
そういう感覚がなんとなくある。
じゃあ、お酒を飲まなくなったら、友人には会いたいのだろうか。あのお店に行きたいだろうか。家でテレビを見続けるだろうか。そもそも家に居続けるだろうか。
これは好奇心でしかないのだけれど、2026年はできるところまで禁酒してみようと思う。
平日は飲まないが、金土は飲むことが当たり前になっているので、そこで飲まない選択をした時、私は何をするのか、自分でも気になる。
20代の新年の目標がこんなのでいいのかは置いといて、少し挑戦してみる。
2026年、今を大切にしながら、一瞬一瞬を丁寧に生きていこうと思います。楽しいを増やせる人になります。
夫婦だけど、1人と1人であることは変わらないし、血は繋がってない
来週、夫と友人の結婚式に参列するので、2人で大阪に行く。
ちなみに私たち夫婦は関西出身で、夫は大阪出身なので、一緒に関西に行くことは珍しいことではない。
友人(新郎新婦)のマンションのゲストルームが空いていたのでそこに泊めてもらうのだけれど、新郎新婦と私と夫は4人で仲良しなので、結婚式前日にマンション近くでランチの約束をしている。
昨日、夫と新幹線の予約をして、友人が選んでくれたランチのお店を見ている時に、何気なく、夫がこう言った。
「ランチ終わったら暇やなー、誰かおるかなー、〇〇(夫の地元の友人)誘ってみよー」と言って、その友人にLINEを送っていた。
それだけのことに、とても、腹が立った。
私といる時間は、彼にとっては暇な時間なのか。
そう思うと、悲しく、苛々した。
本人に悪気がない事は、よく知っている。
私を傷付けるつもりがないことも、その言葉の裏に特別な意味がないことも、よく知ってる。
ちゃんと聞けば、私たちは年末年始に帰省を予定していないから、今回お互い友人に会えたらいいかなと思った、もし私が1人になってしまうなら、一緒に行こうと誘うつもりだった、と。
そんなの、全部きちんと言葉にしてくれないと、分からない。伝わらない。
それだけの考えを「暇」で表されたって、分かるわけない。
私は、別に、貴方と家族になりたかったんじゃない。
何でも話せる、言わなくても分かる、いつも一緒にいるから友達を優先したっていい、そんな存在になりたかったわけじゃない。
ただ、大好きだから、夫婦になりたかっただけ。この先もずっと一緒にいたいと思った時に、私にとっては、その最上級の形が夫婦だったから、結婚したのに。
と、ここまでが昨日の帰り道で書いた文章。
今は朝の通勤電車で昨日のことを思い返している。
昨日、帰宅すると、冷蔵庫には小さなケーキが入っていて、「昨日はごめんね。大好きだよ」のメッセージが添えられていた。
安心して、泣いた。
ちゃんと、同じくらい、この出来事は私たちにとって大きなことだったんだ、と。
でも結局昨日も、その小さなケーキだけでは収まらず、しっかりした喧嘩をして、仲直りをして、寝た。
色々思うことがあって、上手には書けなさそうだけど、思い付いたままに綴る。
結婚して3年が経つけれど、まだまだ知らないところがあるし、知らないまま終わることも沢山あるだろうな、と思う。
滅多に怒らないし、常に冷静で寛容な夫だけれど、喧嘩をするといつも、早口になって、「面倒くさい」「じゃあそれでいい」「この時間無駄」などと口に出す。
その度に私は、この人は自分の気持ちを言語化するのが下手くそだな、と思うし、話し方や態度で怒りを表すタイプなんだな、子供っぽいな、と、幻滅する。
今まで付き合ってきた元彼たちも、喧嘩をするとそういうタイプの人が多かった。
そういう姿を見ると、一気に冷めて、この人の本当はコレなんだな、と思って、すぐに振った。(こんな感じなので、今の夫以外で、10人くらいお付き合いをしたけれど、最長交際期間は11ヶ月です)
そんな私が今の夫と続いている理由を、全て言語化できるわけではないのだけれど、シンプルに、ずっと一緒に居たいのだと思う。
急に馬鹿っぽくなったけど、本当にそれだけ。
私たちは根本的に全然似ていないと思う、夫は理系脳の極みで想像力に乏しいし、私は国語大好きな文系脳で哲学や感情論が好きだし。
でも、それでいい。
1人でも幸せだけど、2人でいるともっと幸せだから、私たちは結婚した。
夫婦だからって何でもかんでも分かりあわなくていい。共有しなくていい。
相手の幸せを願い合っていれば、それでいい。
と、私は思います。
あー、昨日泣いたせいで目パンパンだけど、木曜日なので頑張りますよー。
いつも明るい人は実は根暗、の「実は」って年々減っていって最後には消滅する気がする
私ってどんな人?と周囲へ尋ねて返ってくる答えは以下の通り。
・明るい
・愛嬌がある
・ノリがいい
まあ、合っている。
合っているけれど、私は根暗だ。
親しくない人と話す時は、相手が会話を回してくれたらいいと思っているし、聞かれたことにしか答えたくないし、新しい人と会うのはとんでもなく緊張するし、人前に立つのは嫌だし、少しでも注目されたくない。
けれど、「社会」での私は、その真逆の行動を取ってしまう。
親しくない人と話す時は、可能な限り沈黙を減らすために話題を提案し、話を広げ、相手に聞かれたことは聞き返す。
新しい人と会う時はとびきりの笑顔で、明るい声で話す。
人前に立ったら、ゆっくり話して、何が起きても落ち着いている風に振る舞う。
注目されたら、少しボケて、笑わせようとする。
頑張ってこうしているというより、自然とこうなってしまっている。
これが、私の生きる術として、身に付いているのだと思う。
そして大人である私は、平日の1日8時間、通勤や残業も合わせれば、半日はこんな私なのだ。
となると、根暗な私は休日に存在しているのだけれど、休日は愛する夫や大好きな友人と飲みに行くことがほとんどで、その場での私はとんでもなく明るいと思う。
だって、心許した大好きな人たちと大好きな酒を飲んでいるのだから、どうやったって楽しい。
じゃあ私が根暗で在る時間って、とっても少ない。
ということに、ふと気付いた。
思春期や20代前半まで、周りからの見え方と本当の自分とのギャップに苦しんでいたのだけれど、本当の自分を守ろうとしすぎていたのかもしれないな。
本当の自分がちゃんと在ると強く思うことで、「社会」の私がいくら傷付いても良いように。
そのくらい傷付く場面が多かったのは事実だ。
でももう、どっちでもいい。
明るい私も、暗い私も、全部私。
これまで沢山傷付いてくれたから、そんな中で守り抜いた私が大好きだし、同じくらい、盾となって沢山傷付いた私も大好きだ。
私は、「私」が好きだ。史上最高に!!!!